Prince Consort~From the United Kingdom
2025.12.06
プリンス・コンソート、この称号はあまり聞いたことがありません。日本語にすると王配殿下。さて、ますますわからなくなりました。プリンス・コンソートは女王の配偶者に与えられるようになった称号。実はこの称号を定めるまでにはとても時間がかかりました。
イギリスは立憲君主制の国。元首になるものは男子が優先でしたが、メアリー1世、エリザベス1世、アン女王、ヴィクトリア女王、エリザベス2世と、5人の女王が即位しています。時代の流れで歴代の女王となりましが、エリザベス1世以外は、ヨーロッパの他の国の王子たちと結婚し、王室を継承してきました。
ヴィクトリア女王はドイツのアルバート公と結婚しましたが、時の議会はアルバート公に爵位を与えようとしませんでした。ヴィクトリア女王はアルバート公と仲睦まじく、9人の王子と王女を授かり、その血縁を各国につなぎ、後のヨーロッパの祖母とも言われるようになります。アルバート公は何かと出産に忙しい女王に代わり、行事をこなして補佐しましたが、何の称号もないままイギリスのために働き続けました。
1851年に世界で初のロンドン万博が開催されましたが、この成功はアルバート公によるものが大きかったようです。1857年、結婚して17年後に、女王の強い意志でアルバート公にプリンス・コンソート、王配殿下の称号が与えられます。名実ともにイギリス王室の一員となったわけですが、その後少しして、長男である王位継承のエドワード王子の素行不良に頭を悩ませることになります。
アルバート公は体調の悪いまま、王子が在学していたケンブリッジ大学に出向きます。それが11月の寒い時期。アルバート公はケンブリッジ大学の総長でもあり、その大学の生徒でもある王子の素行不良には面目が立ちません。ケンブリッジから帰ったアルバート公は、そのまま床に伏し、12月14日に急逝します。ヴィクトリア女王は嘆き悲しみ、その後長い間喪服で過ごします。王配殿下としてはわずか4年の年月でした。しかしアルバート公の死後、その評価は高まり、世論もAlbert the Goodと称えるようになります。
※写真はロンドンのサウスケンジントンにヴィクトリア&アルバート博物館のエントランス。アルバート公が迎えてくれます。

